小説『ねのくに』
道ばたに空いた、人の拳が入るほどの穴の底に、月が見える。
真冬の深夜。その小さな穴に気づいたのは、コンビニに行く途中で、足もとに微かな光を見たような気がしたからだ。
だいぶ深い穴のようだが、底に見える月の形はくっきりしている
見上げると、寒空に月が浮かんでいる。
穴の底の月は揺らいでいないから、底に溜まった水に映っているのではないようだ。
ならば穴の底にあるのは、月に似ているが月でないものなのだろう。消えかけの懐中電灯でも落ちているのか。
どうも気になりだし、這いつくばって片目を穴にあてた。
「塞ぐな」
穴の中から声がした。小さいがくっきりと耳の奥に届く中性的な声だ。思わず、
「悪かったよ。そっちに月のようなものがあるから気になったんだ」と答えていた。
「月の光が遮られるのは困る」
「ということは、そっちのは、やっぱり月が映っているのかい」
「違う。これは月だ。ここは、ねのくにだ。そしてこれは、ねのくにの月だ」
「月なら月なんじゃないのか……。まあいい、根の国というと、死者が行く、異界にあるという国かい」
「違う。ここはねのくにだ」
「なんだ、ねのくに違いなのか」
「そうだ、ここは」
穴の中に小さな影が見えた。穴の途中に横穴があるようで、手の平ほどの小動物らしきものが顔を覗かせている。小さな瞳が青白く光るのが見えた。
双眸をきらめかせた影が言う。
「子の国だ。字はこうだ」
「ああ、ネズミか」
「そのような下賤のものではない。われはげっしるいだ」
「いやだって子の国って言ったじゃないか。それに、齧歯類ならやっぱりネズミだろう」
「ネズミ如きを”子”などと呼んで同一視されるのは迷惑だ」
影が説明する。
「月師類か。ややこしいな。で、その月師類さまとは何なんだ」
月師類は答えず、
「そこをどけ」
言われて、思わず一歩下がった。
「では、いただく」
その声に一瞬、気が遠くなった。我に返ると、穴はどこにもない。
ふり仰ぐと、月が消えていた。月のあった場所には、夜空よりも黒々とした穴が。
(完)
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